丹波の臣民/親・妻・子ども

[歌い継ぐ戦争と平和]  ()

 

 

往きしまま還らぬ兄の白絣(かすり)

 

検閲のハガキ落ちきし曝書より

 

草笛や丸刈りの兄消えし海

 

夜の秋兄往きしまま七十年

 

木枯らしは海に果てたる兄の声

 

男手で 育てし三たり 遺骨となりし

 

遺骨今 露の丹波に 還りけり

 

兵隊は 休んでいるか 遺し逝く

 

ルソン夏 賜る末期(まつご)の糧秣(りょうまつ     

 

妻よ子よ 手の届くだけ草食うた (s20.8.)

  

爆弾へ ミシンふみふみ落ちる汗

 

糧秣は 鴨緑江の山指しぬ

 

山開き 父の形見の凹水筒

 

梅雨寒や 半時おきの血便父

 

戦闘帽 北支の霧宙さ迷える 

 

艦傾ぐ 転進最後の晩夏光 

                      

ウソつくな 口に拳骨  足蹴され 

徴兵検査 2

2  徴兵ちょうへい検査に合格すれば、

                                                次に来るのが召集令状=「赤紙」

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戦後71年

  火焔も涼し  

サイパン窟のジャポニーズ

 

 

夏草を倒す戦車へ手榴弾

 

一滴の水争いや 兵も子も

 

新茶の香  夢のまた夢サイパン窟

 

姉ちゃんの出尽きた乳房 炎天洞

 

五番搾りの  えぐいオシッコ 水枯れ島

 

米海兵 炎天洞に泣く赤子

 

火焔放射 雨乞い島の雨蛙

 

乾く舌  泣く子の親へ汗脚絆

 

それだけは・・・ ためらう母へ剣(つるぎ)の眼

 

土用凪    脚絆は赤児の口と首

 

水枯れに火焔の放射 サイパン窟  

 

迎え火や火焔放射に乾く舌

 

火へ猛進 心頭極わまる炎天

 

火焔も涼し 殉忠兵の猛突撃

 

白シャツを掲げたおんな子  崖と海

 (宇2016)

 

大日本帝国憲法発布の式典

戊辰戦争(慶応4/明治元年=1868 - 1869))で尊皇派が勝利、後に造られた靖国神社には、天皇派に従順忠義の兵を祀ることになった。そして、君主制大日本帝国憲法と教育勅語が制定され、聖戦が展開されていく。........................................

 

 

 

 

やすらかに 眠れとぞ思ふ 君のため

       命ささげし ますらをの友

 

 

田草取る 泥手に受けし赤紙に 2 

運命狂いし夏巡り来る

 

 

身はたとえ パラオの沖に死するとも 

     魂生きて父の元へと

 

 

新聞の復員便り読むたびに 

今宵帰るか化粧して待つ

 

 

男装で顔に墨塗り満州を

引き揚げしわけ 孫に語れり   

 

三百数十万 数うる中の一人なる 

夫の死しらず玉音を聴きいたり

 

 

目に涙浮かべて出征わが馬ら 

     夜長を何処の草と眠らむ (20頭)

 

 

村人の建て賜りし殉国碑 

孫らと合掌 戦友 歌う

 

 

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<詠み人/作者は、本文をご覧ください>

 

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    日清戦争に勝利 … 

明治38年(1905年)11月、第二次日韓協約により韓国統監府が設置され、伊藤が初代統監に就任した。そして、日韓を併合---

 

    慰安婦問題など、日韓紛争の根元は ここにある。

 

   〈写真〉↑  長谷川好道陸軍大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(手前)

 



         戦死の公報  《下》          酒井勝彦  (古市 宗玄寺)    


 そして、この「戦死の公報」に添付されていたのが藁半紙に印刷されたB6の紙二枚です。

添付文書1 英霊に就ての御知らせ

御英霊の傳達に際しては更めてその日時及び場所を御通知致します。
尚死亡賜金等は御英霊傳達の際に支給することになってゐますから御承知置き下さい。

  兵庫縣第一世話課

御遺族様

御英霊は板切れに名前を書いたものでした。

そもそも御英霊とはそんな「物」なのでしょうか?。

男也さんの墓石には「両親悲泣して此を建てる」と刻んでいました。
添付文書2 謹啓酒井男也殿の御戦歿遊されました公報を差上げるに方り御遺族の御心中御愁傷の程如何ばかりかと誠に御同情に堪へません 茲に謹んで御悔み申上げます。
 唯此の上は御供養に専念せられると共に犠牲を無にせられることなく新日本建設のため御努力遊ばされ末永く御多幸ならん事を切に御祈り致します。
 尚時節柄何かと御多艱なる御起居を遊ばされ居る事と拝察致しますが當廰に於きましても及ばず乍ら御家庭についての御相談に應じて居りますから何卒御遠慮なく御申出下さる様申添へます。

 昭和廿弐年八月壱日
    兵庫県知事 岸田 幸雄

御遺族様
 多くの兵士は一片の紙切れで招集され、そして御英霊として故郷に帰って来たのです。残された遺族は、これからどうやって生きて行ったら良いのか路頭に迷ったのです。

唯此の上は御供養に専念せられると共に犠牲を無にせられることなく新日本建設のため御努力遊ばされ末永く御多幸ならん事を切に御祈り致します。

 この文言はそっくりそのまま政府にご返還致したいものです。

 「御供養に専念せられ」ていては食って行けないのです。「犠牲を無にせられることなく」やって欲しいのは政治そのものなのです。

 たった一人の息子を取られてしまい、憔悴の果てにいる遺族が、その上まだ「新日本建設のため御努力遊ばされ」なければならないのですか?。

 そして、「末永く御多幸ならん事」が待ち受けているのですか?。「及ばず乍ら御家庭についての御相談に應じて居ります」と言ったって、どうせ門前払いではなかったかと…。

 戦死して行かざるを得なかった道は、遺族や本人が選択した道だったとでも言うのですか。

 戦後60年を経て、改めて取り出してつくづくと読んでみると、人間を「物」のように見て扱ってきた時代の様相が分かります。兵より軍馬を大事にせよ。兵は一銭五厘で補充出来るが軍馬は補充出来ないとまで言われたのです。

 「愛国の母」と呼ばれ、我が子の遺骨箱を胸に抱いて、どうして涙をこらえることができるでしょうか。「泣けば非国民」とののしられ、みんなが帰った後、納戸の隅で、声をかみ殺して泣き崩れていったのは、いつも母だったのです。

 風の吹く夜に、表戸がガタガタと鳴ると、「男也が帰ってきた」と戸を明けて確かめていた祖母は、83歳で亡くなるまで、我が子の戦死を受け入れようとはしませんでした。夕方になると寺の門の敷居に腰掛けて、「今度の汽車で、ひょっとしたら男也が帰ってくるのではないか?」と毎日待ち続けてもいました。岸壁の母は丹波にもいたのです。

 遺族年金は、「男也の命と引き替えだ」と大切に大切にしていました。祖母は、裏の小さな畑に、陸稲も作り、麦も作り、芋もカボチャも、茶も豆も…。食べられる物は何でも作りました。私は小学校の頃から下肥え汲みを手伝い、畑堀りを手伝い、豆の支柱づくりも手伝って来ました。だから、今でも畝立ては上手なんですよ。番茶の手揉みなんてオチャノコサイサイなんです。もういやと言うほど手伝わされて来たのです。そうしないと生きて行けなかったのです。私の学費は、祖母が出してくれた、いや、男也という人の命と引き替えのお金だったのです。

 戦争を知らない世代に移り変わって、何やら首を傾げたくなる事に出合うものです。身の回りに物があふれ、その物を手に入れんがために働き、手に入れた物を維持するためにあくせくと働いているのです。そしてこの瞬間にも、この地球上のどこかで銃弾に倒れて行く人が後を絶ちません。私達の周りでも、またぞろ同じような社会の様相が始まっているのではないかと危惧します。戦争という手段でない方法で物事を解決するのは出来ない事なのでしょうか?。

 毎月の戦没者祥月命日の法要や、年に一度の戦没者追悼式は、犠牲になって行った肉親の悔しい想いをもう一度しっかり噛み締め、二度と不幸な人を出さないための誓いの日であらん事を願うばかりです。亡き御英霊を供養してあげるのではなく、亡き御英霊から、生き様を問いかけられることこそが大切なのです。

 真宗では御英霊という言い方には抵抗があるのですが、あえて用いました。

 

 

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