西紀 丹南 今田


畑中 弘さん(野中)に贈られた日の丸の千人針 --- (タオル大)

天皇は、天照皇大神からつづく万世一系の現人神とされ、「皇軍無敵」を信じて、疑う自由は許されませんでした。

 [不敬罪が刑法に加えられた。1880年(明治13年)~1947年(昭和22年)]

織田 正徳

 私の父は終戦直前の昭和20年7月にビルマ(現ミヤンマー)において戦死しました。私は顔も知りません。インパール作戦に投入されたと聞いています。弾薬も食料も医薬品も届かない過酷な戦況の中にあったと聞きました。昭和20年、母と祖母で田の草取りで、私も田んぼに行っていました。昼前ごろ、

 

役場の人が戦死の公報をもってきました。私は何のことかさっぱり理解できません。

数日後、国鉄篠山口駅に遺骨が帰ってくるので引き取りに行くとのこと。朝から親戚や村の人など沢山の人が来て、私を連れて駅まで歩いて行きました。白布で包んだ白い小さな箱を「お父さんだよ」と言って首にかけられた場所や、自分の向きなどははっきり覚えています。

葬儀の日、母が泣いたのにつられてわたしも大声で泣きました。私はほとんど意味がわかりませんでしたが、私の泣き声で会葬に来てくれた多くの人々が、もらい泣きをして、その場にいたたまれなかったとあとから聞きました。

 

 

西尾  右

親父の残した最後の言葉は70年経った今でも鮮明に覚えている。それは自分が6歳の6月、雨の中で田植えの真っ最中に役場の兵事係が「禎一さん来たでー」といって持ってきたのは召集令状だった。

 田植えもそこそこに急いで家に帰り、母が沸かした風呂に親父と一緒に入り「明日からは一人で入るのだぞ!そしてお母さんお手伝いをしっかりして妹と仲良くするのだよ」の一言だった。

 1年も経たない4月には自分は小学校に入学、まもなく父の遺骨が帰ってきて村葬が行われたが、具体的に何が起こったのか十分理解ができない現実だった。

 あれから70余年母が他界した年齢となった今、長い間苦労をして妹と2人を育ててくれた亡母への思いは言いつくせぬ感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

 

西澤 昭美

 私が5歳のときに叔父さんは17歳で海軍に志願入隊され、船が爆撃にあい、即戦死されたと聞いております。叔父さんとの思い出や記憶はありません。

 

 

石田かつゑ

 私は他所から来たものですので、この人のことは知りません。とにかくお国のために尽くされ、ご苦労様でした。

 

 

西澤 晴夫

 日露戦争で亡くなられたと名前だけはよく聞いていましたが、詳しいことは何もわかりません。亡くなられた英霊をしのび、今平和に暮らせる毎日にありがたく感謝しております。 

 

 

大西 直治

 故父大西康夫から「兄は皇国の行方をいちずに思う」と出征前に弟(康夫)に話していたと聞いた。  「公」を思う心で、私も定年まで奉公することができた。「直治」は、軍神岩佐直治から命名したと聞いている。

 

 

細見 久子 

  お世話になっております。兄のことで、あまりにも歳がちがいますので、何もわかりません。

 

 

田中久美子

 一片の骨さえ帰らない戦争は父母にとっては勿論、兄弟姉妹、子供達には堪忍ならない事です。

叔父は海軍御用船で船と共に海に沈みました。

祖父母のなげきを思い出す度悲しみがよみがえります。

戦争のない平和を祈り、今日は送り盆です。

ご先祖様にも守っていただきましょう。

 

 

稲山 佳子

 戦死した兄 高志は大学在学中に皆がどんどん戦地に行っているのに僕だけこんなにのんびり学校へ行っていては申し訳ないと学業半ばで戦地に行き亡くなりました。

 そんな気持ちに追いやった世相、トップ達をうらまずには居られません。

今は言論の自由があります.皆して必ず戦争はNOと大声を上げて、二度と再びあの戦争に走らないことです。

 不戦を誓い度いと思います。

 

 

谷後 敏輝

  汽笛高鳴るプラットホーム、六歳、三歳、腹に身ごもる妻と家族との別れ、動き出す列車のデッキで長男の手をがっちり握り「立派な人になれよ」と父最後の言葉である。

その時、父三十六歳。本業に就いたのも束の間、造船会社に徴用、徴兵3ヶ月で戦死の知らせ。

父亡き跡は母が幼き子供を親戚の協力で資格を得て、二代目の父の意志を継いだのである。「立派な人」になれないが母は強しの姿に引かれ3代目を果たしあれから七十年、今では孫が4代目を父の意志を継いでいる事を報告します。父よ 安らかにお眠りください。

 

 

河南 茂子

 旧の味間修徳尋常高等小学校より 弁天街道まで出て、軍歌を唄い日の丸の旗を振り、篠山70連隊より出征兵士(兵隊さん)がいさぎ良く、肩に鉄砲、鞄、水筒をかけて歩いてこられバンバンザイと大きな声で見送りました。

 又、弁天駅より出発、兵隊さんは汽車の窓から手を振り、姿が見えなくなるまで旗を振りました。

 母は国防婦人会で、千人針、慰問袋を贈っていました。強く心に残って居ます。

 

昭和十三年の軍歌

 

①  勝ってくるぞと勇ましく 
     誓って国を出たからは

     手柄立てずに死なりょうか 

進軍ラッパ聞く度に

瞼に浮かぶ旗の波

 

 土も草木も火と燃ゆる 

果てなき荒野踏みしめて

進む日の丸鉄兜 馬のたて髪なでながら

明日の命を 誰か知る

 

 弾丸もタンクも鉄剣も しばし露営の草枕

  夢に出てきた 父上に 死んで還れと 

励まされ
覚めて睨(にら)むは 敵の空   

 

 思えば今日の 戦いに   

(あけ)に染まって にっこりと

笑って死んだ 戦友が  天皇陛下万歳と

残した声が 忘らりょか

 

 戦争(いくさ)する身は かねてから   

捨てる覚悟で いるものを

鳴いてくれるな 草の虫 

東洋平和の ためならば

なんの命が 惜しかろう

 《軍歌:露営の歌=映像を見る》

 

酒井 實

  父は昭和12年篠山連隊に入隊後、満州(中国)に派遣され長期間にわたる交戦、極度の疲労と栄養不足による体調不良で広島陸軍病院に帰還との知らせを受け、夜行列車で母と見舞いに行った。

 昭和16年の広島陸軍病院には多くの傷病兵の皆さんが入院されていた。 頭、足、腕に包帯をした人、顔全面を包帯巻きの人、両足を失いベッドに横たわっておられる姿に接した時は非常に驚いた。

 当時、5歳の私には余りにも悲惨な現実を見た時のショックは今も鮮明に記憶している。

傷病兵を見舞う家族の姿も多い中、母の手作りは父好物の寿司を中庭で、短時間ながら親子三人水入らずの会話と粗末な食事が記憶の最後で父は昭和17年に戦病死した。

 それからの苦労は並みでなかった。母は百姓仕事に悪戦苦闘、6歳の私も可能な限り手伝い、少しでも母を楽にして上げたい気持ちが強くあった。

 就職試験は2次、3次と進むが不合格。後で理由を聞くと父の居ない片親だけと言う事が判明した。

父を戦争で国家の為に命を奪われ犠牲となった母子家庭に、正当性に欠ける理由でこの仕打ちは理解できなかった。同じ様な境遇にある方々と悲しい気持ちを乗り越え、今では毎日の小さな幸せに感謝しながら、二度と戦争のない平和で真面目な日本であるよう祈っております。

 

 

長澤 澄男

 戦後70年が経過し現在へ平和な社会になり私達の子、孫の時代になりつつあります。

戦中には私はまだ学校にも行っていませんが戦地へ出かける方をバンザイで送りに行きました。

まだ四歳か五歳の頃でしたが何が起きているのか薄うすわかる様な気がしました。

今現在妻の父が昭和19年に戦死去されました。

 今は私が戦没者追悼慰霊の為勤めています。

  

 

松尾 寿雄

戦後69年経過しますが、私70年余り前のことを思いだしながらペンを取っております。昭和18年頃戦中は非常に食べ物が少なく主食の米は手に入り難く、麦飯、サツマイモ、ジャガイモ等を主食とした食事を良く食べたものだ。勿論魚類や好みの物は、配給制度で全員の方には当らないのが事実であった。日本人主食の米は戦争の為、当時軍人の物資として輸送をした様に聴いている。  しかし、軍人の物資である米などは現地に届かず敵の攻撃により海に沈んだようである。従って現地の西部ニューギニアでは極めて食べ物が少なく小さな乾パン食で息を繋いだように聞いています。なお私の父は昭和18年ニューギニアサルミに上陸後、飛行場の整備並びに航空作戦に参加。

昭和19年5月20日~昭和19年6月10日、敵の攻撃により損害大、昭和19年5月31日西部ニューギニアサルミにおいて戦死したと思われる。国の報告である。ついては平成24年2月1日~2月10日の慰霊友好親善訪問団の旅の一員として、日本遺族会のお世話により日本各地から35名の団体で参加させて頂きました。永年の念願であり、日本を出発して4日目にやっと眠る故郷父の基、西部ニューギニアサルミでの父に再会。戦没地には日本遺族会が献納された戦没者の碑が在り、思わず私は涙 涙の合掌。

 私は碑の前に立ち準備していた追悼の言葉を朗読しましたが、66年振りのサルミでの再会で感動、感激のあまり涙 涙 涙が止まりませんでした。

 この後、西部ニューギニア各地、戦没地に移動してお参りをしました。

平成24年2月10日の24時50分にデンバサールを発ち、東京に向かい翌日8時50分に成田着、バスで東京駅へ、解団式後新幹線にて帰路。

 2度とこのような悲惨な戦争を起こしてはいけない。この事を若い人達に伝える必要があると思います。

 

 

藤田 孝夫

私の父は昭和二十年五月に招集令状を受け満州へ出征しました。そのまま生死不明で終戦となり戦後十年余り経ってから広報が来ました。その間の留守宅で今も忘れられない出来事が在りました。

 我が家では農作業を近くの叔父さんに手伝って貰っていました。その叔父さんは冬場は山で炭焼きをしておられましたので、その縁である時山へ柴を貰いに行きました。

 母と祖母と私の三人で荷車を引いて山へ行き、やがて柴が出来たので車に積んで帰る事になりました。車にはブレーキが有りませんので私と祖母が後からロープで引っ張り、母が舵棒を持って下り始めました。緩い坂道だったので、始めはゆっくりと進みましたが少しづつ惰力がついて来ると後から引っ張るのが難しくなり、遂に手をはなしてしまいました。 車は暴走を始め母は逃げる事も出来ず、車に押されるままに遂に道を外れ谷底へと落ちて行きました。その時はもう正視する事は出来ませんでした。

 母は死んだと思いました。急いで現場まで行き谷底を見ると母は大した傷もなく上がって来るのが見えました。これは奇跡と言うか今は思い出しても身の毛がよだつ思いです。

その後、母は九十七歳の天寿を全うしました。

 

 

 

 

小島 紀子

 

大阪に妻子を残し出征す

 

戦火中 母子で疎開 峠越え

 

母偉大 心泣きしも 顔に笑み

 

生き様は何にも勝る手本なり

 

古希となり苦労せし母 偲ぶ夜

…………………………………….

藤田さかへ

 私の義理の母のことです。

長男は船でフイリッピンに行く途中に撃沈され、次男はビルマで戦死しました。母は頼る人も無く可哀想でした。私が長男に嫁いで来て一年にもならない時でした。夫を若くして亡くし二人の子供を懸命に働いて育て、やっと楽になると思った矢先でした。

 私も実家に帰ろうと思ったこともありましたが、母の様子を見ていたらそうは行かなくなりました。今度、戦争があるんだったらこの世にはおりたくありません。又平和の時代の今の人がうらやましい。

 母が亡くなる前「長男、次男に一度逢わせてくれ」と叫ぶように言っていました。

ずーと貯めていたものが思わず出たのでしょうね。今でもその声が耳に残ります。

 良く百歳まで生きてくれたと感じております。

 

 

小林 尚武

昭和十八年六月に戦没されました。

私には叔父さんが出征される祝いに膝にだかれた6ケ月頃の写真が思い出の記憶です。

 当時、私は長男として生まれましたので大変喜んで可愛がってくれたようです。

祖父母から聞きますに商売に長けておられたようで、帰国したら商売で身を立てるようにと篠山町の一等地に家を買って心待ちにしていたようです。戦死して大変残念だといく度も聞かされたものでした。 

生きて帰ってこられていたら大変頼りになる叔父様であったろうと私も残念に思います。

山西省

山西省恒山、仏教寺院の懸空寺↓

 

大森 利一    

昭和十二年八月支那事変勃発、

長男 大森 繁男、同年八月召集令状により応召する。

昭和十三年四月十一日北支山西省(サンセイショウ)の戦闘に於いて戦死する。

次男 大森 正太郎 昭和十二年現役兵として陸軍騎兵連隊に入隊後、衛生兵に転科する。

大阪陸軍病院等の勤務を終わり、南方の病院船の乗船勤務となった。昭和十九年三月十九日東南アジアの傷病者の収容と食料の輸送勤務中に空爆を受け、撃沈され南太平洋上で戦死する。

三男 大森 利一 昭和二十年五月 北支山西省の戦闘に於いて側射を受けて胸部貫通銃創の負傷をするも軽傷で終わった。

 留守宅の両親も重なる悲報に、老化も早く生業の農耕が進まずで苦慮した。

 

 

小前キヨ子

戦中戦後の体験したことをつづってみました。 私は大正十五年生の八十八歳、青春時代は戦争の真最中でした。布類は品物殆ど売ってなく両親の着物を上着やモンペに作り直して身に着けました。

 何の縁だったのか分りませんが阪神方面から、叔母様が風呂敷にいっぱい古着(絹物)やお菓子を持ってお米や野菜と交換して帰られました。小百姓の私家では余分のお米もなく、向うの苦労話を聞いてあげ、小さなお芋でもふかしたのを喜んで食べたり、お砂糖の代用にサッカリンで甘みをつけた団子を三ッ四ッ持って後の約束をして帰られました。その布や母の着物や羽織を組み合わせ服を縫ったり上着や袋物を作ったりしました。

 綿の木をつくり祖母が糸をつむいで母が織って作業着や帯も作りました。有り難いことでした。現在の様に美しい物が手に入ることは勿体ないことで今でも残って使える物は箪笥にあって安易に捨てることができずに置いています。物を大事にする事は大事なことと思います。

 生ある者総て食べる事程大事な事はありません。兵隊さんの為にと田畑で収穫した物は屑を残して殆ど供出しました。馬鈴薯は小粒ばかり甘藷は細いものばかり南京の茎や甘藷の茎は筋を取り除き小さく刻んで雑炊に入れ量を増やして食べました。

 おやつは柿や無花果グミ等果物の木を沢山植えて食べました。大豆、そら豆は炒り豆としてのり粉を入れ丸く固めておやつにしていました。油は家族数に合わせて配給がありましたがほんの少しでした。

 魚もなく勿論肉類は無く家に飼っていた鶏ぐらいでした。 何かの時には父が料理して食べるくらいの事ご馳走でした。川じゃこを釣ったり網ですくったりして竹串に刺し、炭火で焼いて山椒醤油を掛けて食べました。とても美味でお客様でも喜んで下さいました。

 調理方法を考え少ない材料で大家族の食事に気を使って下さったお母様に今更ながら感謝しています。戦争中は空襲を避けて阪神やもっと遠方から疎開してこられました。小さな私の家も叔父一家(叔父は出征中)叔母と小さな子供二人が帰って来られ苦しい毎日をお互いに助け合い、我慢しながら仲良く過ごしました。豊な生活をされていた人が良く辛抱されたと思います。自分だけでなく誰も不足を言う者は有りません。冬になると一番気になるのは暖房です。ストーブもなく火鉢の火で手をかざし夜は丸いタドンコタツで寝ました。一冬分のタドンは炭を粉にし固め10センチ程に固く丸め、ムシロに並べ干しました. 

 随分の数でした。冬休みには山へ焚き木作りにも行きました。戦争が激しくなると時々B29爆撃機が田舎にも飛んで来ました。70連隊があったからでしょうか? 急いで軒下へ隠れたり、夜はサイレンと同時に黒い布を電球に掛け光がもれないようにして、ローソクの明りで本を読みました。お国のためにと家にある鉄製品(置物、火鉢、花器等)大切な物も供出しました。

 “勝ために黙って往った布袋様” 何不自由のない現在に感謝し、有難い日々を送りたいと思います。

 戦争により、我が家にとってかけがえのない兄を満州の地で亡くした事です。病に倒れた不幸を許して欲しいと詫びの手紙が両親宛に度々書いてありました。元気だった兄は高等科3年まで一日も休んだことのない身体でしたが、北満の地でさぞかし残念だったと思います。私が昔の話をよくするので顔も知らない娘は、叔父さまにしてあげるのは、供花やお茶、慰霊祭へのお参りくらいしかないと心からお弔いを欠かさずしてくれます。

 又、主人は飛行隊で南方で戦傷の身となり、足のケイレンがひどく外科手術もしました。

今でも内科医で受診をされている人、手足を無くされた人、視力を無くされた人等苦しみに耐え、がんばって下さる人が多くおられます。生ある限り喜びを見出して楽しくお暮らし下さい。  お元気で。

 

 

石川 勲

戦争だけは2度と起こしてはなりません。平和な国として行きたいと思います。

遺族新聞を読み、涙しつつ読むのを楽しみにしています。

  

 

西垣千栄子

 春に生まれて秋に入隊して姫路に見送りに連れて行ったと言うことを聞かされています。

お蔭さまで母が再婚(弟と)したので幸せに暮らしたと感謝しています。

 

 

中沢 豊

 青春の真っ最中でした。 親思いのやさしい人でした。  ある日、突然の召集令状。

ルソン島で車の運転中に帰らぬ人になりました。 二十一歳の若さでした。

 どんなに無念だったことでしょう。残された母は淋しさいっぱいでした。

どうか やすらかにお眠り下さい。そして二度と戦争のない平和な国であります様に。

 

 

中澤 孝子

国民学校に変り勉強はほとんど出来ませんでした。 義兄は海軍に入隊されてフイリッピンのミンダナ島で昭和二十年七月に戦死されたと聞いています。

姑は、晩年長男である義兄が「いつまでお国の為に働いているのだろう」と言って帰りを待っていました。

二度と戦争をしない平和な国が続きますように願います。

 

 

岸本 碩之

 日本が海外進攻する事は不正を無くす事と考えられ信じた。

 又、不審に思っても何も言う事が出来ない環境にあった話しを聞かされた。 何が正しいか?

 教育も含めて情報過多の今、正しい事は何か判断が必要な時だ。

 新聞でさえ何が正しいか信用出来ない。

 

 

中澤 友和

 フイリッピンで亡くなったと聞いているが戦争を知らない我々世代には、想像も出来ない平和な時代となっている。

 しかし、テレビで報道される中東の紛争と重ね合わせると、平和な日本に生まれ生活が出来る事を幸せと認識し、平和を維持して行かなければと強く思います。

 

 

平石 通

 私の家は三人の戦死者がいます。

自分は昭和十年生まれなので小学校でしたがすぐに国民学校に変りました。小さい時なのでお葬式が家であり又村でしていただき大変だったそうです。自分が大きくなったら兵隊に志願したいと思った事もありましたが、すぐ戦争が終わり今の平和な国になりました。

 あの悲惨な戦争を二度と起こさない事を靖国神社に誓い、国の長である内閣総理大臣として参拝して欲しいです。

  

 

団野  旭

 母は短歌を習っていました。八月にはいつも戦死した父への想いを詠んでいました。

 

田草取る 泥手に受けし赤紙に 

運命狂いし夏巡り来る 

 

若い母は支那事変の出征から無事に帰ってきた父と一緒に田の草取りをしていました。そこへ二度目の赤紙を持って吏員がやってきました。その日から父と母の家族の運命が狂ってしまいました。朝夕父の無事を祈って蔭膳を供えていましたが、それもむなしいことでした。

 

三百数十万 数うる中の一人なる 

夫の死しらず玉音を聴きいたり                                          

団野すみゑ

 

昭和二十年八月十五日 玉音放送お盆の里帰り先で聴きました。この時父は既にニュウギニアにて戦死していました。

 昭和十九年七月、一年も前に亡くなっているのに何の公報もなく、案じながら無事の生還を待ちに待っていましたのに。

 

 

 

新谷 清

  父の出征後姫路の部隊に入隊、母と面会に行った。当時父の勤務の関係で大阪機工(川西市)の社宅に住んでいた。

 警戒警報のサイレンが頻繁に鳴り、空襲警報に変ると防空壕に避難したのを覚えている。

終戦後、父はボロボロに破れた軍服を着て飯ごう一つ持って帰ってきた。その時ビルマの戦地でマラリアにかかり心臓病等を併発し、発狂、かっ血、一年後見るも哀れな姿で去って行った。

 思い出すと自宅の畳の上で亡くなったのが、せめてもの慰めであったが二度と思い出したくない。

 

 

小林ふみ子

私は主人の召集のあったことを、一人前の男であったことを誇りに思っていました。姫路で50連隊へ入隊して、面会に来るように通知がありました。お酒を2本持ってきてほしいとのこと、自分はのまないが最後の別れに飲むためでしょう。お酒の券をもらって面会もゆっくりできず、知らぬ地で探して二本を渡すと 箱に入れて姿を消しました。その後憲兵が馬で通りました。私は親戚で泊まって翌日姫路に着いたら、もう駅に行進していました。私は必死で主人の名前を言って走りました。誰かが「もっと前」と言って下さいました。駅に着いたら。「入場券は売りません」と書いてあったので、次の御着の切符を買ってホームに立っていると上官に連れられて、私の前に来てくれたのですが何を言ったのか、何を聞いたのか、今も記憶に残っていません。

 軍人の妻として、慣れない百姓と村の人と山の木出しなど、人一倍働き通しました。

 終戦になり、復員する人が次々と増えました。

 

新聞の復員便り読むたびに 

今宵帰るか化粧して待つ

 

 

お父さんへ        酒井喜久子

 

父の眠るフィリピンへ慰霊の旅に参加させていただきました。言葉では言い尽くせないほどの苦労をして私たちを育ててくれた母のことを父に報告し、山の上まで家のある風景、空気、風の音を肌で感じ、全員でふるさとを唄いました。この異国の地で最期をとげなければならなかかったことを思うと、無念に思うだろし、心残りであっただろうと父を偲び、胸が一杯になり、拭ってもぬぐっても頬を伝った涙。空は真っ青でした。

戦争のない平和な国でありますように。

 

奪い合わず 助け合って               

                            ...孫たちに伝えたいこと…      石川 英昭

 

   世界の人々が幸せに生きていくためには、奪い合うのではなく、助け合わなくてはならない」
日本は明治維新によって長年の鎖国体制から開国・通商路線に転換した。
   しかし、欧米諸国と国力に大きな差があることを知らされ、不平等条約を押し付けられることとなる。
その結果、当然のごとく富国強兵政策が推進され、日清戦争、日露戦争、そして太平洋戦争へと暴走することとなった。
 この80年間の政策が失敗であったことを知り、その轍を踏まないようにしなければならない。

 

  地球の資源は有限です。力で奪い合うのではなく、みんなで分け合うのです。



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