篠山 城東 多紀


 

 

往きしまま還らぬ兄の白絣(かすり)

 

検閲のハガキ落ちきし曝書より

 

草笛や丸刈りの兄消えし海

 

夜の秋兄往きしまま七十年

 

木枯らしは海に果てたる兄の声

 

兄は大正十一年生まれで現在存命なら九十歳になります。昭和十八年十月二十二日台湾東北沖にて戦死との広報を受け取りました。遺族会発行の「戦没者名簿」に依りますとげ篠山市内に兄を含めて六名の方が同じ海上同日戦死されたことを知ることができました。

いずれも大正十年、十一年生まれの方々です。さぞ、無念であろうと胸がふさがります。

あらためてご冥福をお祈りいたします。                

                                                       坂部まきゑ

 

 

    

  身はたとえ パラオの沖に死するとも 

魂生きて父の元へと

 

母はすでに無く、父が一生懸命霊をおまつりしていたのを甥私がみてきました。祖父はフスマに詩を大書していました。               泉     西嶋 進

 

 村人の建て賜りし殉国碑 孫らと合掌「戦友」

   もっと見る 戦友 、映像と歌   日露戦争

 

 

 

男装で顔に墨塗り満州を引き揚げしわけ 孫に語れり   

 

  

目に涙浮かべて出征わが馬ら 

         夜長を何処の草と眠らむ

 

    (20頭)   

  

ルソン夏 賜る末期まつご糧秣(りょうまつ)草     

 

いざさらば 手の届くだけ草食うた (s20.8.)

 

 

爆弾へミシンふみふみ落ちる汗

 

糧秣は鴨緑江と山指しぬ

 

北支の霧 宙返りせし戦闘帽 

 

山開き 父の形見の凹水筒

 

梅雨寒や半時おきの血便父


今生の最後の晩夏  艦傾ぐ


 

 詠み人知らず 

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語り継ぐ戦争と平和   

   玉砕 甦らぬ「英霊」二百万 ≪ 映像を見る ≫

 

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徴兵(ちょうへい)検査 合格すれば「赤紙」=召集令状 ↑

 

ウソつくな 口に拳骨 (げんこつ) 足蹴(あしげ)され    

  

養蚕を営みいたる戦時中 

  おやつ桑の実 くちびる赤らむ

 

ルソンの攻防地図 ↑

≪被害≫

  • 日本軍  
    • 尚武集団:戦死9万7000人
    • 振武集団:戦死9万2000人
    • 健武集団:戦死2万8000人
  • アメリカ軍  
    • 第6軍:戦死8310人、
    • 戦傷2万9560人

 

橋本 信雄

・(大正14年生まれの89歳。軍隊、ソ聯抑留4年間体験者)

・国の為なら『九牛の一毛より軽い命』と受けた教育。

・戦友の死を目前に「ヨシ!俺も・・・・」と死は怖くない!しかし“食”については・・最終は動物イヤ動物以    下になる!! 世界平和は全人類の願いごと

・戦争での制圧は一時的なもの!

・武器は持たない。使わない(参加しない)

 ・徹底した話し合い 命運を賭けたことによっては互譲の精神をもって話し合いでの解決



堀井  泉


 戦後69年が過ぎその間日本は平和国家として歩んできました。世界の各地で紛争、テロが起こっているニュースを聞くたび、平和な日本に生まれてよかったと思わずには居られません。この先も歌にありますように、私たちの子ども、孫も戦争を知らない子どもたちであってほしいと願っています。


 


古屋 晴三


 小学2年生の時終戦を迎え、その苦しかった生活を思い出します。原爆投下、終戦となり、その度報道される悲惨さに心が締め付けられます。あの戦争が二度と起こらぬよう願いつつも、国外からの侵略は防いでほしいと思います。


 今論議されている安全保障論議の内容もあまり分からぬ中ですが、あの惨事だけは起こらぬよう願っています。


 


 


古屋 篤子


 終戦は5年生でしたので、戦争のことは覚えています。日本は負けたといっても、別に悲しいとかうれしいとか思いませんでしたが、ドラマを見るたびに、戦争を始めることを決めた人たちはどんな考えで始められたのか。親兄弟はいなかったのか?私はその人たちが憎いです。二度とこのようなことがあってはなりません。でも、忘れ去られようとしている今が悲しいです。言い続けることに努力しましょう。


 


 



詠い継ぐ戦争と平和

 

    

 

やすらかに 眠れとぞ思ふ 君のため

    

命ささげし ますらをの友

 

 前皇后様より        

大渕 故 畑 浪子様へ 

 

 



寺本昭二郎


 戦後70年を迎えんとしています。しかしながら、残念ながらいろいろと問題が残っていることは事実。中国や韓国などのことで、政府の靖国参拝など、たびたび起こることは残念です。各地自治体にても年2回あった戦没者追悼式も秋に1回となってしまいました。いろいろと事情もあると思いますが、風化してきており、遺族としても残念です。


 


 


藤井美智子


 あの悲惨な戦争が終わり69年。私たちは今日まで平和に暮らさせていただいてまいりました。厳しい戦地で戦われ、苦しく耐えがたい日々を送られ、犠牲になられた兵士様たちのことを思うとき、このいただいた平和に感謝の祈りをささげること。この戦争を風化させないことが唯一私たちの大切な役目と思います。


 この先も紛争のない平和なこの国で暮らさせていただけるよう、祈念し続けたいと思います。


 


 


小林智恵子


 戦争をして得るものは何もない。戦争のおかげで沢山の命が失われています。戦後生まれの私には父や祖父母たちの話を聞かされて育ちました。


 昔、広島原爆記念館を見学させていただき、本当にこんな出来事があったのか目を疑うほどでした。今の時代に育った子どもは話を聞くことしかできません。もっと命の大切さを学校で学ぶ必要があるかもしれません。動物をかわいがり、世話をする。そんなところから人を殺したり、いじめたりすることもなくなるでしょう。


 戦争の時代に生きた人たちが少しでも昔の体験を云い伝えてほしいと思います。そして、今の平和な時代が長く続くよう感謝し、暮らしていきます。


 


 


斎藤 祐子


 嫁ぎ先の義母や義父からも聞いたたことがなく、又実家の祖父母からも戦時中の話は聞いていません。この遺族会の内容とはそれますが、実家の母親から聞いた話です。


 赤紙が来て主人と長男を送り出したおおばあちゃんは、無事を祈って時間のゆるす限り近くの八幡神社にお百度参りを続けていたそうです。ある日、社の前で白蛇がとぐろをまいてじっとしているのを見てとても喜んで神社から帰ってきたとのこと。終戦になって主人も長男も無事に帰ってきたので、家にある限りのお供え物を持ってお参りに行ったそうです。


 


 


 松笠 昌子


 父は大工をしていたので、軍属として出征したと母親が云っていました。


 飛行機がたくさん飛んで来た時は祖母が早く家の中に入るようにと云って、家の中でじっと飛行機が行くのを待ちました。


 食事は麦を平たくした麦ごはんを毎日食べていました。


 おかずはいろいろ配給されたものや家で採れたもので組長さんの家に分けてもらいに行きました。配給でもらった服を着たこともあります。


 姉は学校に行っても勉強はせず、山で炭焼きや炭俵などを作っていたそうです。


 田畑のほうは祖父が年老いており、病気がちだったので、親類の兄さんに手伝ってもらっていました。


 昭和20年に父の戦死の公報が入ってそうです。毎年8月の祥月祭にはお参りをしています。


 


 


市村 英喜


 戦後69年が経過、世代交代が進み、戦争がますます風化している。


 しかし現在の日本の繁栄は、戦争という大きな犠牲の中から生まれたものであり、その一番の犠牲者は女子や子供など弱者ではなかったか。母の一生を振り返る時、18歳で農家に嫁ぎ、22歳の時、夫が招集。『家の事は頼む』と戦地へ。23歳の2月長男が誕生。同年12月中国で戦死。以後、農家の働き手の中心として農業に励む。


 10年後祖父母が他界。10歳になる息子の成長だけを楽しみに女手一つで育てる。毎日の百姓仕事、村の行事、親戚近隣の付き合いなど朝早くから夜中まで毎日が苦労の連続だった。休む暇などなかったのでは・・・。その母が83歳で生涯を閉じるまで若い時の苦労、泣き言、愚痴のひとつも話しているのを聞いたことがなかった。


 現在も亡母に感謝々々。あの悲惨な戦争を二度と起こしてはならない。


 


 


酒井 民男


 私はS21年10月8日生まれです。戦後生まれですので戦争は知りませんが、戦争に行かれた年輩の方に、戦争の話を聞いたことがあります。命をかけての戦いです。多数の方が戦死されました。沢山の軍馬も戦争に行ったと聞きました。今も世界のどこかで戦争があります。悲しいことです。


 


 


北川 忠義


 日本のように安全に生活できる事があたり前だとは思わずに、いつも洗いたての服が着られること、いつも三度の食事ができること、いつも家族と一緒にいられることなどを感謝しなければならないと思う。また海外では、毎日笑顔でたくましく生きている人たちを思い出し、本当の平和とは何かというのを考え、人々が助け合いながら生きていける平和な世界になることを願いたいと思う。


 


 


志儀 芳夫


 7人姉妹兄弟の上4人が女、下3人が男で武夫は一番上、私が一番下で、しかも9歳も離れており、小さい時の記憶は全くありません。帰郷した時は何か土産をもらえるのが楽しみでした。


 兄が出征する時私が小学校上級の頃で、兄が軍属の白い服に軍刀をもち親戚、親兄弟と真ん中で写真を撮っているのが残っており、また個人のも持っております。彼女がいたと聞いたこともありましたが20歳そこそこで戦死し、全く残念です。県遺族会に島を訪ねるとの計画があり、問い合わせたが親か子でないと駄目と断られました。何とか行きたいと今も思っています。


 


 


波々伯部妙子


 叔父(M36生まれ)S18年アッツ島にて玉砕41歳 少佐


 父(M44生まれ)S20年ミンダナオ島にて戦死35歳 曹長


 叔父(T6生まれ)北海道にて入隊訓練中に終戦 復員後母と再婚、父となる。


 


このような環境の中で母の苦労は絶え難いものがあったと思うが、私は何の不自由もなく生活できたのも母のおかげだと今改めて思う。強いて嫌だったことは家じゅうの衣服が兵隊さん色であったこと。小学校6年までは全て軍服を仕立て直したもの。カバンも兵隊さんのカバンを使っていたこと、足袋も母が軍服でつくったものだった。とにかく叔父が偉大な人だったため、父より叔父の話(戦争に勝ってる時代)をよく聞かされた。叔父の礼服は、東京の会館へ納めた。


 


 


坂本 雅美


 昭二さんは戦争に志願して行かれたそうです。そしてまもなく、船で戦地へ送られる途中、終戦の 一週間前に船ごと沈められ、戦死されたそうです。


 祖母の話ですと、あと一週間遅かったら戦死せずに生きていたのに、悔やまれて・・・・といつも言っておりました。昭二さんはとても親思いの優しい子で、雅美によく似ていると・・・・。昭二が生きていてくれたらナア・・・・!!と祖母から何度も聞かされました。


 全国で沢山の方が戦争の犠牲になられました。今後は二度と祖母と同じような母親ができないように。戦争はぜったい起こしてはならない!!。


 


 


柴田 豊春   


 日本国は軍国主義、大和魂を掲げ、軍人の栄誉にあこがれを持ち、満州戦争を始め、支那事変、大東亜戦争と戦前から戦後の苦難の道をたどり物資不足と食料難等の苦い経験もしてきました。


 戦争前の状況、篠山六十八部隊第七十連隊指令がありました。我々も軍人にあこがれて知識を磨いてきました。支那事変勃発、徴兵制度が敷かれ、赤紙による兵士出征。国の為、天皇陛下の為に男子本懐これに勝るものはない・・・・妻子親兄弟を残し、「元気で戦ってまいります」と挨拶。国土を守るわれわれ国民は日の丸の旗を振って送り出す。国土を預かった者は武運長久、縫い針を戦争兵士に送る。派遣された兵士は次々と攻め、戦果をあげる。大東亜戦争勃発。子ども団体疎開。学徒動員の会社作業援助。中学校以上の軍事教育。戦う兵士に食料を送る為、麦や大豆粕。野山や平地で薬草を摘み、常食とした。小学生はイナゴを取り、ゆで干して、また草木の皮をはいで学校へ持参した。戦中、アメリカB29来襲で爆弾投下。原子爆弾投下、無情の敗戦となり、大東亜戦争は終結した。小生の弟は支那からフィリッピンに派遣され、悪天候に悩まされ、終戦直前8月に戦死した。


 


 


垣内美栄子


 父親がニューギニア島へ戦争に行ったのは姉が5歳で私が3歳の時でしたから私は覚えておりません。姉が父親に自転車であちこち連れて行ってもらったそうです。


 姉から聞いたことなのですが、兵隊さんが家へ泊まりに来られたこと。父が加古川から帰ってからニューギニアに行く前に母と会って『子供たちのことを頼む』と言って挨拶している間に『お父さんが帰ってきた』と近所に言っている間に父が行ってしまったそうです。後姿を見たのが最後の別れだったのでした。母は姉に怒ったことがなかったのに、その時だけは涙を流して怒ったそうです。


 その後は、母、姉、私に絵葉書が来ました。食べ物がなく、母方の祖母が畑を作っていて、藤坂から荷車で食品を運んでくれました。今でもその姿が目に映ります。 二度と戦争はしてはいけないと思います。


 


 


 


西田 美登


 当時教職にある人は兵隊は半年行けばよかったので、兄も師範学校を卒業、教員として2年勤めました。徴兵検査で甲種合格で海軍で出征しました。折悪く兄の時から半年が2年に延び、大東亜戦争が激しくなり帰れなくなり戦死しました。公報を知らせに来られた時は父母は悲しみに耐えていましたが、祖母は毎日氏神様へお参りし、陰膳を供えて無事を祈って居ったので、気が狂ったかのように泣き叫び、あの時の様子は今も私の脳裏から離れません。戦争というものは残酷です。


 天皇陛下がお国の為に散って行かれた大勢の御英霊に慎んでご冥福をお祈りし、今後このような惨事が起きないよう、いつまでも平和であることを祈ります。


 


 


    


野々口道子


 私の家は2人戦死しておりますので、これから二度と戦争は起こさないようにしてほしいです。


 お願いします。 


 


 


平田 恵子  


 大きな港に船が着き、私の父は遺骨となり帰ってまいりました。5歳で何も知らない私は「お父ちゃん帰ってくるん?」と喜んで周りの方を泣かせたそうです。


 支那事変での戦いでお骨も遺品もあった時でしたが、その時からは母28歳の未亡人となり、祖父母からの援助だけの生活が始まりました。それ以上に国の為と言われ、35歳で亡くなった父はどんな思いだったかと思うだけで涙が出ます。その3年後に世界大戦に入り、厳しい生活を余儀なくされました。学校へ行っても勉強は二の次、芋作り、山から木を運ぶなどそんな毎日でした。


 日本中が終戦までにどんな苦しい生活だったか・・・・終戦近くには空襲があちこちであり、焼け野原。孤児、家を失った人、原爆もあり大勢の人々が亡くなられました。


 こんなことは二度と起きないよう戦争を経験されてない方にお願いします。


酒井 民雄


 敗戦後朝鮮へ出征した父の生死が分からず、舞鶴へ引き揚げ船が着くたびに母は父を迎えに行ったと聞いています。昭和21年12月7日朝鮮の興南病院で戦病死する。祖母と母、7歳、5歳、2歳の子どもが途方にくれる。親戚や近所の人に世話になり、母は子どもと家を守る為に必死で田畑を馴れない牛を使って耕していました。4年後祖母死亡で、母一人では百姓はできなくなり再婚する。義父との生活は苦労が多く、いつも母は気を使っていましたがギクシャクしたものでした。だが、今の自分があるのは義父のおかげと思っています。 戦争は二度と起こしてはならない。


五十川睦美


 戦争で受けた傷跡はいくら月日がたってもそう容易に忘れられるものではありません。現地に赴いた兵士さんの大変さだけではなかったのです。残された家族にもいろいろ悲劇があったのです。


 弟は父を知りません。父のぬくもりも知りません。B29のすさまじい爆音に急いで子どもたちと2歳になる子どもを背負ってすごい火の中を着 のみ着のまま逃げました。「おかあちゃんあついよ」背中の子どもが泣き叫びます。ねんねこに火がついたのです。急いでねんねこを脱ぎすてました。けれども時すでに遅かったのです。子どもを助けることはできませんでした。


 当時高校生だった私に語ってくださいました。ポロリと涙が落ちるのを見ました。私はことばもありません。とても悲しかったのです。戦時中大阪より疎開して来られた方の話です。



 辻  喜子


 


靖国の遺児らの白髪 終戦日


   


養蚕を営みいたる戦時中 


     桑の実おやつ 口元染めぬ


 


 私の生後2ヶ月足らずで家族を残し、父は戦争へ行きました。母は当時27歳。結婚してわずか2年後のことでした。その後29歳の若さで父は戦死。


 父亡き後、祖父は「負けてたまるか・・・何クソ・・・」と口ぐせのようにつぶやくことが増え、力仕事を一心不乱にしていた姿が昨日のように思い出されます。頼りにしていた長男を亡くし、実兄も戦死し、寂しく悔しい思いが溢れていたのでしょう。当時都会から叔母一家も疎開しており大家族になったので、子ども心に嬉しく楽しかったものです。が、当時の祖父や母は父である大黒柱を失い、幼い私を育てるため、池のコイや川で魚を取ったり山羊を飼って乳を搾るなど、自給自足の生活の中、大家族を支えていたのでした。B29の不気味な音が響くと大きなサイレンが鳴り響き、息をひそめ近くの防空壕で身を隠していた怖い記憶が鮮明に残っています。


 学校には手先が器用で裁縫を教えていた母がつくってくれた服を着て、こまめな祖母が編んでくれたワラ草履をはき、風呂敷を持って通学していました。そして、小学1年の夏、ラジオから流れる声で日本が負け、戦争が終わったことを知りました。


 「お父ちゃん生きていたら・・・」「お父ちゃんやったら・・・なんて言ったかな・・・」と私の心の声はいつもいつの日も胸の奥にありました。でも、祖父が父親代わりになり、祖母も母を助けみんなが私がさびしい思いをしないように・・・。と懸命に育ててくれました。


 現在、その母は102歳。約10年余り寝たきり状態ですが、会話はでき、昔を懐かしみながら話し込むこともあります。この先、あまり長くはいられないだろうと思う時、たまらなく愛おしく切なさがこみ上げてきます。出来る限り一緒にいる「とき」を大切の過ごしたいと願っています。あの世に何も持っていくことはできないけど生きた証と幸せだった頃の想い出は永遠に母の心に残したくて・・・。


 人生の一番輝いていた時代に戦争とともに散った尊い命。そんな命をかけた犠牲の上に今の時代があるということを感謝し、平和な世の中を築いていく責任を強く深く、一人ひとりがこころに誓い、持ち続ける国であることを心より願っています。


↖      →

出征旗 父賜りし勲鏃痕 


≪寄せ書きに見る当時の思想=昭和18年≫


「皇風万里」 


祈 武運長久 為○○○○君

 

必勝  勲 鏃痕

撃ちてしやまめ 一抜日本刀

 

神州健児 一死報国 ( ノД`)      

もっとスゴイのが七生報国

 

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武器は持たない 使わない

「互譲の精神  話し合い」で     

             橋本 信雄

(大正14年生まれの89歳。

軍隊、ソ聯抑留4年間体験)

 

*  国の為なら『九牛の一毛より軽い命』と受けた教育。

*  戦友の死を目前に「ヨシ!俺も・・・・」と。死は怖くない!

*  しかし“食”については・・最終は動物イヤ動物以下になる!! 

*  世界平和は全人類の願いごと

*  戦争での制圧は一時的なもの!

*  武器は持たない。使わない(参加しない)

*  徹底した話し合い 命運を賭けたことによっては互譲の精神をもって話し合いでの解決


露     坂本 勝子

 

男手で 育てし三たり 遺骨となりし

 

遺骨今 露の丹波に 還りけり

 

兵隊は 休んでいるか 遺し逝く

 

紙切れ一枚の2人

 父の兄弟は男4人。その内父と弟2人で、計3人が戦地に行きました。
 父を除き2人がルソン島とサイパンで戦死しました。二人を兄のごとく私は慕っていた記憶があります。祖母が若くして早く亡くなり、親戚関係であった母が嫁いできて家族を支えたのでしょう。師範学校の生徒であった兄は志願して出征しました。祖父は手塩にかけて育てた2人の戦死は辛かったことでしょう。

     2人の遺骨を祖父と神戸に引き取りに行った記憶があり、名前をかいた紙切れ一枚だったことを覚えています。母はこんな紙切れ一枚になってと声を殺して泣いていました。祖父も辛かったでしょうに泣くことはできない時節柄でした。
 父は公報が入り、葬儀を終えたある日、栄養失調の上弱視となり、やせ細ってボロボロの姿になり生還しました。スマトラでの「マラリア」の伝染病の後遺症で、体が激しく震えるのに怯えて暮らしておりました。

 

 

    戦地では兵隊さんの死骸を乗り越えて帰還したことを非常に罪悪に思っておりました。最後まで、「兵隊は廊下に休んでいるか」と私に「見てきてくれ」と何度も何度も叫びました。最後まで部下達の事を心にとめて亡くなりました。 
    年老いた祖父と幼い私と母を残して10年、音信不通の戦いは、いかばかりだっただろうと思います。父の青春は戦争だったのです。私が生まれてすぐに出征した父が、帰ってきてもなじめない私でした。「お父さん!」一度も呼ばなかった私。大きな声で呼んであげれば・・・と反省しています。他人としか思えなかったのです。
 今、10代の孫3人に父の軍服姿の写真を見せると「おじいちゃんは『人殺し』をしたの?」と質問され、何も知らない孫たちに「今の平和は戦争で尊い命を失い、留守を守った家族の上に成り立っていることを決して忘れてはけない」と教えたのでした。
 3人の10代の孫を連れて軍人墓にお参りして、石碑に刻まれた2人の名前を教えた夏休みでした。「戦争のない平和な日が続くように・・・」と祈る3人の孫を見て少し安堵したのです。
 これからもシッカリと戦争について語り続けねばと心にちかったのです。

サイパン  ↑

ルソン島 マニラ     1945.5    ↓

私の人生の思い出の一節

 

                                                                             故 畑 浪子

 終戦後28年迎えまして、今日つくづく過去を振り返ります時、在りし日の苦難の年月は大きく、爪痕を残し喜びにつけ、悲しみにつけ私の胸を離れることはありません。

 陛下のお言葉の通り、堪えがたきを堪えへ忍びがたきを忍んで、子どもだけを唯一の生き甲斐として今日に至りました。この苦しみは私たち未亡人ならでは、計り知れないものが多々あるのでございます。

 この度この苦難の道筋を地区より発表せよとの会長様の支持を受けまして、私なんか到底皆々様に聞いていただくような過去ではございませんが、責任上立たせていただきました。

 私は結婚後13年にして、子どもに恵まれませず、母と主人と3人の平和ながらも淋しい生活でございました。子ども連れの楽しそうなご家庭を見るにつけ羨ましく思い、心はいつも子どものある家庭のことでございました。ところが13年ぶりに、私33歳の時やっと願いが通じ、喜びの兆しが見えたのでございます。これで皆様並の明るい楽しい生活ができると、その日の来るのを家族共々喜んで待ち続けておりました。やがて予定日も迫り、昭和139月8日の明け方より産気づきました。

 ところが運命のいたずらとでも申しましょうか、同時刻に召集令状はすでに役場へ来ていたのでございます。家族や親類の心配は一通りでなく、若い私に知れて気でも失っては大変と召集令状を道で待ち受けて受け取るやら、召集と聞いて訪ねてくる人の言葉が私の耳に入らないようにと、いちいち門先で待ち受けての応対だったのでございます。

 その皆様の暖かいお心添えによりまして、私は何も知らずに無事女の子を分娩しました。

けれども何分、年がいってからの初産のため体が弱り、その上出血いたしまして先生に来ていただくやら、また大騒ぎとなり、絶対安静を命じられました。産後3日目でございました。実家の母が枕元で静かにしかも遠まわしに招集の話をしますので、初めは何のことかさっぱりわかりませず、人ごとのように聞いておりましたのですが、だんだん話していくうちに、それが主人のことと気のついた時、あまりの突然のこととて、全く心の遠くなるような思いで言葉も出ませんでした。漸くにして落ち着きを取り戻したとは申しながら、枕に滲む涙は止めようもありませんでした。

 やがて6日目となり、いよいよ高槻の工兵隊へ入隊することとなりました。出発の時刻も迫り、軍服に身を着替えた主人は、赤いタスキをかけ子どもの枕元に座り、じっと食い入るように安らかに眠る子どもの寝顔に見入っておりましたが、やがて静かに出て行きました。この慌ただしい6日間が待ちに待った子どもと共に暮らす6日間であり、最後の別れであったのでございます。私もせめて門先まで見送りたいと思いまして、支えていただきながら、垣根伝いに出て行きました。家の横で村長様に出征と出産のバンザイを三唱していただき、元気に出て行きました姿は今もなおありありと記憶に蘇って参ります。そして20日高槻にいましたが、広東に向けて出発してしまいました。この時も産後、日なお浅く残念ながら面会に行くこともできませんでした。でもお陰さまで、皆々様のご協力によりまして順調に肥立ち、今度は母と娘の三人で寂しいながらも可愛い子どもの笑顔に励まされ元気を出して、当時日置の小学校に勤めておりましたので、出勤できるようになりました。

 母も主人の無事帰ってくることを楽しみに、子どもを背負って日置の学校まで5キロの道を毎日、お乳を飲ませに通ってくれました。戦地からは広東より海南島へと転戦して元気に行軍を続けて奮戦していると何度も便りが来ておりました。ところが、149月より無理が重なり、ついに病魔の犯すところとなり入院したとの知らせで大変ビックリいたしました。部落の方々や学校の先生方も、色々ご心配下さいまして、氏神様にお百度参りなどしてご祈願しましたが、これも虚しく15年1月11日の夜、戦死の電報を受け取りました。お国のためとは申しながら、戦争の惨めさをつくづく感じさせられました。

 その頃は、戦死の方々も少なかったため、ご丁寧なお祀りをしていただき、又盛大な村葬をしていただきまして本当に感謝しております。又靖国神社へも子どもを連れて参拝させていただき、これ又、丁寧なおもてなしを受けました。 戦死された方々のことを思います時、本当にもったいなく感激しております。嘆いても返らぬこととて、これからは残されしこの子どもを大切に強く生きるのが私の使命と毎日元気を出して出勤いたしました。

 けれども、母も追々と年を重ね、子ども連れの田仕事も無理となり、やむなく昭和20年終戦の年、退職しました。子どもも大きくなり、小学1年に入学して元気に通学して、やがて夏休みとなりました。戦時中のこととて楽しみもなく、実家へ行くのが何よりの楽しみで、「お母ちゃん、おばあちゃんの家へ行こう。」としきりに迫りますので、言われるがままに連れて行きました。喜び勇んで走りながら八上駅から汽車に乗り実家へ参りました。ところが夕方よりにわかに元気がなくなり、下痢発熱、ひきつけなど、急いで先生に来ていただきましたところ、赤痢と診断され手の施しようもなく、翌日、消ゆるが如くに亡くなってしまったのでございます。

 寝ても覚めても子ども一筋に何よりの生きがいと暮らしてきた私は、今その子どもに先立たれ、やるせない心持ちとその上実家で亡くしたため、8年間共に苦労して育てていただいた母に対するお詫びの言葉もなく、済まない心持ちとが混沌として入り乱れ、この時の精神的な痛手はとてもお話できるようなことではございませんでした。思っても帰らぬこととは申しながら、一人愚痴をこぼしたものでございます。この抜け殻のような心持ちを何を持って癒すべくもなく、全く放心状態の毎日でございましたが、ご近所の人の頼まれるままに、和裁の塾を開き、これも社会奉仕の一つと思いまして皆々様に来ていただきました。そして、若い娘さんたちの話し声や笑い声に、心慰められ、又励まされて暮らしていきました。

 次の子に関しまして、色々心配しましたがお陰で良い子をいただき、大変優しくしてくれますので、日々明るく朗らかに暮らすことができ喜んでいます。孫も3人でき、大きく成長して優しくしてくれますので、子どもが帰って来たように思い楽しんでいます。

又、精神修養にと詠讃歌の道に精進させていただきましてより、15、6年になります。その間、全国大会、その他あらゆる会合に出席させていただきまして、この道を通して我が宗門のありがたき御教えを悟らせていただき感謝の日暮らしをしております。

 又昨年、詩吟同好会が篠山支部で結成され、それにも入会いたしまして、これ又楽しい生きがいの一つでございます。その他、家事の雑用のかたわら余暇を利用して、ささやかな庭園ではございますが、菊作り、盆栽作りなど趣味の道にいそしんでいます。このように潤いのある生活ができるのも家族共々健康であり、理解のあるためと感謝の明け暮れでございます。

 以上つまらない発表でございますが、最後に戦死当時に皇后様よりいただきました御歌を朗唱させて頂き終わりといたします。

  

やすらかに 眠れとぞ思ふ 君のため

    

命ささげし ますらをの友

 

 

................................................................................................... 

 


荒木幸雄 


昭和19年10月私9歳、母29歳のとき父は上海で戦死した。その時分は


ナイナイづくしの生活 


に耐えて来た。


四百四病のやまいより、貧ほど辛いものはない


紙切れ1枚で戦場に駆り出され、国の為に亡くなった可哀相なお父さん。


戦争に負けても、日本という国がずっと続いているように、戦没者の


家族の心情も又変わらない


 


 


五十川美智子


 昭和18年に安東で生まれ、奉天で終戦を迎えました。21年に博多に上陸し、父の実家に9人の家族がお世話になりました。私宅も含め、国民は必死で生きて来たと思います。今の生活は戦争の犠牲の上に成り立っていることを忘れまいと思います。


 今もあちこちで戦争が起こって、人間のみならず地球を破壊しています。この『愚かな行為』を世界中の智恵を結集してやめさせられないのでしょうか。


 


 さらに『原子力の平和利用』の名のもとに開発を続ける『原子力発電』も、実は自然破壊を進めるものだと日本人は一番自覚しなければならないと思います。


 

井関 五郎


 父は昭和20年沖縄方面に於いて戦死。その間母の言によると「戦争に行き詰めでほとんど家にいなかった」とのこと。したがって父と遊んだ記憶は乏しい。戦後、食糧難で家の畑のジャガイモを生かじりして空腹をいやしていた。


 

松田恵美子


  主人の父は20代で出征し、母は心配のあまりに病死しました。兄弟2人は祖父母に育てられ、百姓と冬は酒造りに出て生計を立ててきました。苦しかったことはあまり多くは語りませんが、大変なことだったと思います。その主人も80歳を過ぎ、よいおじいさんになりました。主人の口癖は戦争は絶対にあってはならないと言います。 私も戦争だけはないことを祈ります。


 

 西田タズ子


 “ウー”と云う空襲警報が鳴り、今まで外で遊んでいた友とも別れて急いで家の中に。家の中には小さな庭があり、防空壕というのかおおきな穴が掘ってあった。その中には日常生活で必要な物が少々置いてある。小さな私には家での生活よりも穴の中に入って”ボー“とついた裸電球の明かりの下での生活が楽しいものだった。防空壕という思いより別世界のめずらしさが楽しいものだった。裸電球には黒い布をおおい、飛行機の遠ざかる音で外に出る。幸いにも住んでいたところは難を逃れた。2メートル離れた映画館が焼けた。夜だったというのに昼間の明るさ以上の明るさは忘れられない思い出。


 

畑 誠一


 私たち家族3人(母、私、妹)は昭和16年3月に父の居住する中国北東部に渡り生活していました。


 私の父は元関東軍の将校でしたが、昭和20年8月9日、ソ連軍の参戦により捕虜となり、内モンゴルウランバートルに連行されました。


 当時私は旧制中学2年生で、親元を離れ牡丹江の中学で寮生活をしておりましたが、学校は同年8月9日に解散となり、独りで何とかたどり着き昭和21年母の実家に身を寄せておりました。


それから2年後父も復員してきました。母、妹、その後生まれた弟とは、音信不通になっておりましたが、数年後母の知人と言われる方が自宅にお見えになり、3人の遺品(髪、爪、実印)を届けてくださいました。そこで、母たち3人は中国で餓死して亡くなったこと、最後は本当に悲惨で見ておられなかったと涙ながらにお話しくださいました。当時、母28歳、妹9歳、弟3歳でした。


戦争は二度としてはならない。あまりにも大きな代償を払ったと思います。


一生忘れられない辛い思い出です。


 


 


 波多野和子


 私が嫁いだ先が、2人の息子が赤紙一枚で召集され、北支とビルマの地で時と場所こそ違いますが同じく28歳で戦死。祖母は辛い思いを押さえて生きてこられ、長男と結婚した母は4歳の父の顔さえ記憶にない幼子抱えて未亡人。悲しんでばかりおれず吾が子を育てる為に又家を守るために必死で田畑を馴れない牛を使って耕し生き抜いてこられた偉大な母の存在でした。結婚した当初は周りの人たちの苦しみや悲しかったことなど計り知ることもなく只々子育てと仕事を覚えることで精いっぱいでしたが、今になって祖母や母の必死で生きてこられた道のりを察することができます。最愛の家族を残し戦地で散って行かれたご英霊の御霊に手を合わし、安らかならんこと祈るばかりです。このような思いを子や孫に二度と経験させたくありません。夢や希望に満ち溢れた子どもたちをしっかり守り、育てていくのが今の私たちの責務だと思っています。戦争は絶対反対。あくまで平和な国であることを念願しております。



酒井 倬哉(母の文)


 夫は昭和17年12月遥か南の国ニューギニア島にて戦死致しました。人生最大の不幸に直面しました。その日限り一切の望みの綱はぷっつりと切られました。うれしいにつけ悲しいにつけ涙に暮れる日も多々ありましたが、嘆いてばかりもいられません。経済面で一番困り、頼りになるのは自分ひとりであると子どものため、家のため節約し、東から西からかけずり回り、仕事をさせてもらいました。


  尊き犠牲となった夫、残されし者の悲しみ、途方に暮れることのないよう、二度とあの忌まわしい戦争がおこりませんように・・・


 

清水 鶴江 


 全国戦没者追悼式に参列させていただけたことに心より感謝申し上げます。


 戦没者の方々のご冥福をお祈り申し上げ、母が今年100歳になり健在であることの有難さ、御蔭を伝えてさせていただきました。


 靖国神社の御霊に手を合わせると胸がいっぱいになり込み上げるものがありました。


 父の出征の時よちよち歩き始めていた私は父のあとをよろけながら追いかけたそうです。その周囲の雰囲気にチラと振り向いてくれたのが私との最後の別れだったと母から聞いています。


 その時からの再会で高齢になっている私が分かっただろうか、御霊の姿は写真で見ている青年のような父でした。


 感慨深い二日間でした。ありがとうございました。



石田 保二


 叔父は東部ニューギニアで昭和19年戦死スル


 倉  淳

  ・特別攻撃隊出撃前、母が最後の別れの為千葉飛行場まで面会に行き、一夜を語り明かした際、兄  が母に言ったことは『日本が万一敗れた時には自決せよ、何をされるかわからないから』・・・戦時教育がそう言わしめたのであろうと思います。

  昭和20年4月12日戦死しました。

 

大江 昭一

  私が満1歳の日に出兵し、帰らぬ人となりました。家は貧しい五反百姓で祖父もいなく、母と祖母に育てられました。私も他人に牛で田鋤を教えてもらい、他家の田鋤やらいろんな仕事、アルバイトをして家を助けましたが、母が過労で入院し、中学校の卒業旅行はお金がなく「忘れました」と言って廊下に立たされたことを思い出します。当時はこんなもんかと思っていましたが、今思えば父がいたらよかったと思います。これからもわが子や孫が戦争に行くことがないよう切にい思い、平和が続くことを願います。

  

いざ突貫・熱田島 山崎隊

 

ゲートルにつなぐ肉弾三百余  

              玉砕血しぶき怯む米軍

     

 

もっと見

魂 城

大東亜戦召集     思い出の記

 

 昭和18年11月1日充員召集を命ぜられ、呉海兵団に入団す。11月12日九州佐伯隊軍防備隊付を命ぜられ、呉佐伯間こがね丸に便乗、昭和19年2月19日第4根拠地隊付を命ぜられ、呉海兵団に仮入団。佐伯呉間汽車隊伍旅行。同年3月6日呉海兵団を出発し、汽車にて横須賀に向ふ。

8日横須賀着。同日アトランチック丸に乗込む。兵器手回品を置き、すぐ食料積込みにかかる。

 2日間積込み全部終って11日横須賀出港す。スパイの関係上東京湾内の木更津沖に一夜定泊し12日我等船団12隻が哨戒艇4隻と軍艦「龍田」に護衛され、いよいよ出発す。甲板に出ると左舷のほうに並んで走る輸送船は確かに陸軍らしいのがよく見えた。前後左右に並んで美しく白波を残して走る様は実に愉快である。我画家なれば絵描きたかった。木更津沖を出てから2日目であった。いくら四方を見ても水平線上島ひとつ見えぬのに、富士さんのみは雲の上に頭を出し、我等をいつ迄も見送って呉れて居る。過日横須賀へ来る道中汽車の中にて御殿場駅より富士山をながめた時は我等の門出を祝福せしか一点の雲も無く全景を見せて我等を見送って呉れた時を思い出し、今日はあんなに小さくなって見えるのか、明日はもう見えなくなるのだ。これが日本の内地の山の見おさめか、明日の命はわからない。いつか心は郷里に帰り、皆々様達者で働き守って下さい。私は明日の生命は分かりません。しかし無事任地に上陸したい決心で居りますと合唱して居た。今朝は敵の潜水艦の魚雷で我が船団の一隻が撃沈された。時に午前3時我が乗って居る輸送船に命中したのかと思った。気味の悪い爆音と共に寝て居る身体を1尺ぐらいもほり上げられたようであった。魚雷と聞くやすぐ早く甲板へ上り他の輸送船を見たが暗くてよく見えなかった。古兵に其の時教えてもらった。我が船が撃沈された場合は船の沈み方を見て遅く沈むほうへ飛び込み、早く船を離れて居ること、必ず軍服は脱ぐなと云われた。船が沈んで仕舞うと必ず板か何かが浮かぶからそれを早く捕まえることだと教えられた。色々と話を聞かされ、その翌日であった。亦朝3時頃一隻撃沈された。今朝は護衛艦の瀧田が撃沈されたと聞く。総員益々神経が過敏になって来る。昨日の一隻、今日の護衛艦、両乗組員は救助できず其のまま残る船団は哨戒艇に護衛され、の字運行をし乍ら南方へ走った。空には友軍機が昼間は護衛して呉れているが、夜になると内地へ帰るので、各船のマストより電灯にて信号が続く。友軍機の見える間は気強いが、夜になって友軍機が帰ってしまうと心細い。夜が明ける2時間前、明けてから2時間後の4時間の間と日が暮れる2時間前後が敵の潜水艦の活動を最も注意せなければならぬ時だ。昼間は哨戒直毎に交代して見張りをするが、此の日の出と日の暮れの前後4時間宛は総員甲板に出て見張りだ。毎日生死の見張りでつかれ乍らも二十日余り風呂に一度も入るでなし。亦船には真水の積み込み量が限られて居るので、ま水の量の割に乗り込む兵員が多いので、総員の入浴出来よう筈がないのだ。12回はスコールが来たので総員入浴用意の号令があった。其の時は甲板に裸で出てスコールで身体を洗った。而し古兵のみではないが古兵が多く我等補充兵は大体洗えないもの計りであった。上甲板で身体を洗った雨水が下甲板へ落ちる其の水で洗って居る者もあった。哨戒艇が我等輸送船団12隻の2列の縦隊並んだ左右を前後に2隻宛並んで護衛しているが、敵潜水艦の近寄らぬ場合は哨戒直の勤務だけで他は休むが其の時大洋上の我が船団をながむれば、前後2列に左右整列して進行し、各船が黒々として大海を乗り切って址に白い太い線を残し乍ら走る様は実に爽快なり。或る日は大波と戦って上下する場合前後の船は沈んだかと思う程何も見えない時もあった。自分は船にはあまり乗っていないので酔いはせぬかと心配したが、身心が張り切って居れば少しも酔いはなかったのに自分乍ら不思議であった。毎朝の洗面も真水少なき為下士官用に一人当5勺位の真水を配給されるが要領の悪い者がとりに行くと他の隊の兵にくみとられて居る。それで自分等など洗面の出来よう筈はなかった。内地を出発して道中で2隻撃沈され、多くに戦友が太平洋に沈んで消えたのは大変気の毒に思ったが、其の他の船団は全部危うくサイパン島へ着いた。初めて見た南洋の実景色大変に美しかった。永い間の航海で真水が少なくなったので、真水や食料の補給をする。我が船の甲板より下の海上をながむれば黒人がハシケに乗って我が船へ給水作業や食料補給の作業をして呉れて居るのがよく見えた。サイパン島の自分等に見える所は全部砂糖きび計りであった。補給積込各船終り再出港せり。サイパンにて船団は別れ々々になり、各任地に向かう。これより護衛艦はなく各船単独で任地に向かった。我等上原部隊はモートロック行きなり。と鈴木部隊の両陸戦隊が同じアトランチック丸に乗り組んで来たのだった。サイパン出港後3日目トラック島に到着、入港す。時に58日夕方であった。これより前線任地モートロック行は危険に付き出港できず一先ず乗組員総員上陸。夜業で食糧兵器其の他の荷揚げを行う。上陸しても兵舎は無く焼残りの民家を修理して兵舎となす。四根司令部の命により夏島に我等の使命12糎高角砲台構築す。砲台構築作業中度々敵機の空襲を受け乍ら戦備作業を続ける。敵機が機銃操射をする場合は地面に大きな穴がプスプスとあく。動いているのを見るとすぐバリバリと射って来る。機銃操射は実に気味が悪い。而し夜間の機銃操射は実に美しい。蛍光弾が線を絵書いて飛んで来るのが美しくよく見える。亦、夜の空襲下焼夷弾を落としたのも一里余りの間一面の火の海となり各所に集積してあった爆弾が自爆したことが度々あった。自分等も砲台が出来上る迄は空襲になると壕の中に退避した。其の時の或る空襲の時下であった。自分の背中が暑くなったので手でさぐるとシャツと千人針の腹巻の間にさわると切れる様になった弾片が入って居た。何所かで爆破した破片が飛ぶ力が無くなり落ちたのが自分の背中だったのだ。幸いにして負傷せずに済んでよかったが兵舎は弾片で各所に風穴をあけられ、屋根のトタンも穴があきスコールのある度毎に雨がもってこまった。度々敵機の空襲を受けつつ我が分隊の高角砲4門の据付終わるや4月29日、30日5月1日の昼夜の別なく敵機の大空襲を受く。我等毎日の操法で鍛錬した腕を試す時は来れり、と大いに張り切れり。我等は3番砲の砲員なり。我が配置は2番砲手(砲弾の装填)なり。平素の操法にて砲員となれば海軍の花形だよと云われた。いよいよ今日は其の花形たる腕を試す時が来たのである。指揮所よりの号令で4門の砲が一斉に火を吐く。各所の砲台も一斉に火を吐き、大地も崩れん計りの砲声と地響きだ。続いて射ての号令で1ヶ砲に10発宛発射した。さすが敵ボーイング30余機も一度は隊列を崩して東天に去ったが、亦他の敵機が現れたり。我が方にも各島に1,2ヶ所宛の飛行場は有るが敵機と戦う戦闘機1機も無く本年の2月の空襲でほとんど全滅となり飛行場に飛行機の残がいが山と有るのみ。只空襲となると最初の内は12,3機が飛んで退避して居たが空襲の度毎に帰ってくる数が少なくなり、少しの間に1機もとばなくなって仕舞った。敵も段々と大胆になり低空でやって来る。この3日間は昼夜の別無く我が砲台は火を吐いた。敵も爆弾投下機銃操射と必死でやって来る。我等の生命も今日は駄目々々と思い乍ら敵機に発砲を続けたのであった。3日目の51日であった。これ迄は指揮所よりの号令で発射して居たが此の日は各砲自由に生死を忘れて乱射した。我が砲が火を吐いた途端に砲身の上が真っ暗になり、何も見えなくなった。思わず総員地に伏せた。爆弾だ。総員の伏せた上に土が沢山降って来たらしい。後で気が付くと戦友の上に沢山土が降りかかって居る。自分の伏せた1尺も離れない所に6、7貫位有りそうな大きな石が落下して居た。もう少しで自分の頭は砕かれる所だった。幸いにも我が砲員無事だった。而し班長が背中に弾片で浅い傷を負うていたが、不幸中の幸いであった。砲側の円錐の外へ出ると爆弾の為直径5、6間余りの大きな穴が掘れて水が一杯湧き、大きな池が出来て居た。我が隊の砲台付近へは多数の爆弾が投下されて居た。此の3日間の戦闘は筆舌に表す事が出来ない激闘であった。これ迄の定期的の空襲の折には発砲の数が少ないため、敵機より投下された爆弾も30余個点々と黒いのが双眼鏡で見て居ると段々大きくなりヒユヒユ々々と物すごい勢いで落ちてくるのを度々見たが此の日計りは4門の砲が一斉でなく各砲毎に単独発砲したので敵機の落とした爆弾も気が付かず、只砲の発射のみに必死であったので、落下して炸裂した音も聞こえず、土煙で真暗になって初めて砲員全部が爆弾と知ったのであった。敵機の去った後で兵器点検をすると我が砲身には爆弾の破片が当たって食い取った様に大きな凹んだ所が出来て居た。そして土まみれになり、砲の旋回も上下動も重くなって居た。砲側の弾薬庫は異常なし。小銃の銃架を点検すると大きな石が飛来して銃架はこわれ小銃3丁折れ使用不能となり、其の他の小銃は土まみれとなって居た。すぐ明日の戦備に兵器手入れをなせり。兵舎は破片や爆風で大破せり。兵器手入れを済ませ兵舎の数理も充分には出来ない。1日に一度や2度の空襲は定期になって居る。其の後の空襲で砲弾一発も無く総員防空壕へ退避する計りだった。敵が去った後はいつも兵舎や道路等の修理のみであった。7月頃であったかサイパン島玉砕と聞くやそれ以来我がトラック島は自然消滅かの如く思った。其の後度々の空襲で砲側の円錐は大破され、砲の旋回も出来ぬ様になったので4艦隊司令部の命により我が高角砲隊は今度春島へ移転する様になった。夏島に於いて4艦隊の目に止まる戦果を挙げて砲は分解して掘り起こし、2ヶ月余りかかり船に積み込み、春島へ輸送す。春島は飛行場の直上の山に再構築にかかる。椰子の木を切り柱を作り砲台の円錐を造る。岩盤地帯故大変な難工事であった。兵舎は椰子の木の林の中に立てたが穴のあいたトタンで屋根をしたのでスコールの度毎に雨がもって毛布を濡らしたことが度々あった。空襲の度毎に機銃操射や爆弾投下の破片等で兵舎は荒れる計りなり。主食の米が不足して来たので焼かれた山を開墾し兵舎の付近も掘り返して畠を作り甘藷苗を植えた。大きくなったと喜んで居ると爆弾で目茶々々にやられた時もあった。主食に甘藷計りでは続かぬので木の実を主食にした時もあった。空襲を受け乍ら砲台構築も出来上がり度々の空襲に各砲有るだけの砲弾は打ち終わり、1ヶ砲に50発の宛は玉砕の時に最後の別れの砲弾に残し、其の後の空襲には防空壕へ退避して、其の他は戦備作業として隊長以下総員主食の甘藷作りに毎日働けり。夏島で一度砲弾を打ち終わったが、其の後潜水艦が内地より輸送してきてくれたので有難く受け取り手入れをなし砲台の弾薬庫に納める。最初のうちは幾らでも内地より弾の補充が有るものと思い、空襲の敵機に各砲毎に競争で発砲したが補充が無くなってからは敵機を見乍ら発射用意の号令で装填し、砲員張り切って射ての号令を待ったが、指揮所より射ての号令出ず敵機は次第々々に遠くなっていくことが度々あった。弾薬庫内の砲弾の数が知れて居るので指揮所よりは敵機が我が島を攻撃せない限りは射ての号令は中々発令されない。他の砲台は弾を沢山持って居るのか毎日発砲して居るが我等は命とたのむ砲弾が少なき為思う存分に発射できず残念であった。而し敵が我が砲台を攻撃に来た場合は総員血湧き肉躍る張り切った勢いで4門の砲が一斉に火を吐く。敵機の近くで砲弾が炸裂したのがよく見える10余機宛の敵機も各島の砲台よりの一斉射撃に目的も達成出来ずいずこかへ姿を消したと思い乍ら亦次の一隊が現れたり、我が隊は指揮所より敵機爆弾投下の号令あり。しばらくするとヒュヒュ々々音がしたかと思うとダダンと地震の如く地響きがした。我が砲台は異常なしだが兵舎の前の甘藷畑を亦目茶々々にやられた。弾片で兵舎の屋根に多くの穴をあけられ修理にこまった。敵は我が砲台のすぐ下の飛行場へ投下したらしいが各砲台の一斉射撃に急いで落として飛び去ったので早く落としたのが我が兵舎の前の甘藷畠に落下したのであった。後で落としたのが同じ春島の北側の第一飛行場に落下して整備兵が多数の戦死者や重軽傷者が有ったと聞いた。度々の空襲で各飛行場の滑走路は目茶々々にやられ我が友軍機は多数の残骸あるのみ、我が砲台の直下は春島第二飛行場の滑走路なるが最初の内は23機発着して居たがいづこへ行ったか姿を消して仕舞った。我が友軍機は1機も飛ばないので敵も段々大胆に成り、各砲の死角を飛んで海上すれすれに飛び各所をカメラに取っているらしい。ある時は我が砲台の上を低く来たこともある。其の時は永いさおがあればたたき落とせる位であった。我が砲の死角を飛ぶ時は敵機を見下ろすのであるから敵が乗って居るのがよく見える。我等の砲も敵のカメラに納まって居るものと思う。砲弾が無くなってから空襲になると岩盤の防空壕へ総員退避するのが定期である。敵が去れば主食の甘藷作りなり。夜間の空襲に敵機が照明弾を落とすと退避するのに明るくてよいがすぐ機銃操射(掃射)をやられるのにはこまった。其の後或る日の空襲で岩盤の防空壕に入って見て居るとすぐ前の夏島の東方海上に敵軍艦が5隻並んで居るのがよく見えた。1隻は航空母艦も見えた。敵機は夏島の夏島の上空を飛んで居る軍艦よりは夏島を砲撃して居る。弾着は思った所へ上手に落として行く。総員防空壕より見て居てトラック島も玉砕だと云いあった。其の晩であった。我が山根隊長より総員第3兵舎に集合せよとの命令あり。第3兵舎とは我等2、3、4番砲の兵舎なり。夕食終わるやすぐ甲板掃除をす。第1、第2兵舎より総員我等の甲板に集合す。隊長より訓示あり。我等のきょうの戦況で大体分かって居る。トラック島も玉砕が時間の問題なり。明日は見廻り品を整理して書物や日記帳写真等は書類と共に全部第2兵舎の裏で焼却せよと言い私があった。其の翌日朝食から銀飯であった。永い間銀飯を食べなかったので大変美味しかった。分隊士がいつも云われた玉砕用の米を残すから今は甘藷やパンの実(木になる実)で我慢せよと玉砕するようになると銀飯を腹一杯食って共に死のうと朝食の銀飯は美味しかったが各書類や写真を焼却する時は胸を痛めた。一番後に残ったのは写真であった。戦友も写真計りはおしがっていた。而し命令故しかたなく総員焼却したのだった。敵缶は毎日現れ、各島々を艦砲射撃して終わりには上陸用舟艇で一斉に上陸を決行するものと思いしに意外にも其の後敵艦の影も見せず敵機の姿も見ず、これでトラック島は自然消滅するものと思って居るのだろう。而し空襲には時々やってきた。我等内地を出る時今度の観艦式は桑港だと聞かされ乍ら出たのに意外にも無条件の降伏となった。我等も玉砕が時間の問題と思って居たが意外にも生命が続いて無事再度内地の土を踏む事が出来、復員せり。種々と書きたいが戦地下日記帳を焼却したので詳細な事は書けないが思い出し乍ら書いたので前後したり文面に不都合な点も多々あると思うが、大略の思い出を記す。

 

    昭和201230日復員

        海軍二等兵

               武 田 繁 夫

 


大 和 魂 

君が代  日の丸 

滅私奉公

日本男児 一億火玉

海ゆかば 水漬く屍 

尽忠堅忍 

八紘一宇 

打倒米英  

聖 戦 完 遂



  玉砕 甦らぬ「英霊」二百十万 ≪ 映像を見る≫ atuhenuhabag地図から検索≫‐NHK  遺品は爪 @shimabara   ejudategabad